光風 

 前に来たのは、夏。
 丁度、長崎でライブをした時だった。
 あの時は言い聞かせるように『これでいい』と思っていた時だった。
 風太が朔太郎を思い出したら、二度と笑えなくなったら、――――ずっと悩んでいた。
 ずっと笑っていられるように、『楽しい』がなくならないように。
 約束を破らないように。  


 そればかり思っていた。
 どうかこの日々が、この笑顔が曇ることがありませんようにと。
 風太を連れて行かないでほしいと、いなくならないでほしいと、そればかり考えていた。


 でも、それも、もう終わりなのだ。


「……で、それで……」  身振り手振りを交えながら風太が嬉しそうに朔太郎に話し続けている。
 大和のこと、忘れていた時間のこと、東京で会った友達のこと、他にもたくさん。
 風太の声は止まらない。
 嬉しそうにずっと話かけている横顔に絋平は泣きそうになるのを我慢していた。
 最も、あおいと岬は我慢できずに泣いているのだが。
「やけん、それから」
「…風太」
 ずっと見ていたい、と思う光景だったが、さすがにすでに空は赤くなっていた。
「なんね?絋兄ちゃん」
「もう遅い。そろそろ閉門だ」
「えぇ~~~話したりなか!」
「そうは言ってももう遅いだろ。門が閉まったら出られなくなるぞ」
「その前に追い出されるけどね……」
「う~~」
「……風太、今日は実家に帰るんだろう?」
「そうばい!」
「なら、家に仏壇があるはずだ。そこで話したらいいんじゃないか?」
 帰るのは名残惜しいのは同じだが、さすがに門が閉まる前には帰らないとまずい。
 しかし、風太はまだ話したりないらしく口を尖らせる。
 そんな風太に名案だと言わんばかりに大和が助言をする。
「珍しくいい案だな」
「仏壇!大和、名案ばい!」
 キラキラとした瞳で風太が頷く
。 「そうだね、そうしたらいいよ」
「そうと決まったら、急ごうぜ」
「あ、少しだけ待ってほしか!」
「風太?」
 そう言って、風太はまた墓の前に戻る。


 そして――――――
「~~♪~~~♪」


 サクタローに口づけて、音を鳴らした。空まで届くように。
 それに呼応するようにキラキラとサックスが輝いた、気がした。


「……」


 一曲、演奏してそれから風太は満足げに微笑んだ。
「朔兄ちゃん、また来るばい!」
 その言葉に、今日ベースを持ってこなかった事を残念に思った。


「そういえば、大和って今日どこに泊まるの?」
「……そう言われてみれば、考えてなかった」
「え?うちの泊まると?」
 帰り道、とにかく朔太郎に報告をすることで頭がいっぱいであおいの言葉にそういえば大和の泊まる場所を考えていなかったことに気付く。
 一応、長崎に親戚はいるらしいが突然押しかけて泊めてくれるのは難しいだろう。
「いや、風太は朔太郎さんと積もる話があるんだろう、俺は大丈夫だ」
「やけん、」
「仕方ねえなぁ」
 しょうがない、家に泊めるか、と思ってた時、絋平よりも早く岬の口が開いた。
「俺の家に泊まれよ」
「うん?いいのか??」
「仕方ねえだろ、でも部屋は狭いからな!あと白米はあんまり食えねえからな!」
「……仕方ない、商店街で米を」
「大人しく諦めろ!――それじゃあ、俺たちはこっちだから」
「ああ」
「明日の待ち合わせに遅れるなよ!」
「岬、大和、また明日!」
「わかってるっての!」
 ほら、こっちに来い、と大和の手を握って歩き出す背中を見送り、風太とあおいの家の近くまで向かう。
「あれ?絋にい、家、こっちじゃなくない?」
「ああ、ちょっとな」
「ふーん、まぁいっか。それじゃあね」
「あおい、また明日な!」
「絶対に遅れるなよ!遅れたら飛行機飛ばないんだからな!」
「解ってるばい!」
「本当かなぁ……それじゃあね、絋にい」
「ああ、おやすみ」
「おやすみ、絋にい、風太」
 そう言って手を振って中に入っていくあおい。
 チャイムの音と共にあおいの母親の嬉しそうな声が、聞こえた。
「それじゃあ行くか」
「――……うん」
「風太?」
「……」
 あおいの家から風太の家は本当にすぐ近く。
 だから、この短い距離で立ち止まる必要なんてない。
 だというのに、風太の足はぴたりと止まった。


「どうかしたのか?足、痛いのか?」
 立ち止まった風太がどこか怪我でもしたのかと思って顔を覗き込もうと近づく。
 けれど絋平を振り払うように風太は顔を横に振った。
「絋兄ちゃん」
「うん?どうかしたのか?」
「あんね、」
 風太が何かを言おうと口を開き、けれど言葉にせずにまた噤んだ。
 どうかしたのだろうか、と絋平は風太らしくないその様子に心配になる。
「…どうしたんだ、風太?」
「……」
 道路を見る風太。
 何を考えているのだろうと思っていると、勢いよく風太は顔を上げた。


「ちょっと公園によらん?」
「公園…?」
 指刺したのは風太の家とは逆方向だ。
 なぜ、と思いながらも風太の空色の目がじっと絋平を見つめていた。
 ダメだ、もう遅いだろう、そう返すことだって出来る。
 でも、自分でも解っているが風太の願い事は基本的に叶えてやりたくなるのだ、昔から。
 もうこれは性分だ、と自分でも解っている。
「……まったく仕方ないな」
 仕方ない。
 だって、ワガママを聞いてやれば風太は嬉しそうに笑うのだ。
 それを見たくない人間など、少なくとも絋平の世界にはいなかった。
 すぐ近くの公園。
 忘れもしない、絋平が風太と岬とはじめて会った場所だ。
 朔太郎の手に引かれてキラキラとした目でやってきた風太。
 兄ちゃんが出来たと嬉しそうに笑ってくれたあの日から、ずっと絋平は『風太の二番目の兄ちゃん』だ。
「しばらく来なかっただけなのに懐かね~」
「東京での生活が目まぐるしかったからな」
 そう口にする風太の背中からはどんな顔をしているのか解らない。
 絋平は風太の感情が読めずただ見つめることしかできない。
 空はすでに一等星が空で輝いていた。
「ここで絋兄ちゃんと出会ったとね~」
「ああ」
「覚えてると?」
「忘れるわけないだろ」
「そうやね」
 そう言って風太は少しだけ寂しそうな顔をして振り返った。
「俺は、ほんの少しだけ忘れてたばい」
「……」
 絋平は、風太のことはよく知ってる。
 それこそ17年間という長い付き合いだ。
 自分の弟や妹よりもずっと風太と過ごした月日は長い。
 だというのに、今の風太の表情は今まで見たことがない気がした。
「絋兄ちゃん、覚えてると?ここで兄ちゃんになってくれるって言ったの」
「……忘れるわけないだろ」
 朔太郎に手を引かれて、キラキラとした目をした風太と、隠れておどおどと不安そうな顔をしていた岬。
 兄ちゃんになる、と言うと嬉しそうにした2人の顔。
 『やったぁ、にいちゃんがふえたばい!』
 大好きな朔太郎のようになれたことが嬉しくて。
 それと同時に、泣いたり笑ったり無邪気な風太に目が離せなくなった。
 岬や、後に加わったあおいが聞き分けの良い子だったこともある。
 風太はまるで紐のない風船のようにすぐにどこかに飛んでいってしまう。
 けれど、笑った顔を見るとつい、許してしまうんだ。
 心配したことも、探し回ったことも、こっちの気も知らないで、笑うその顔に。
 そんな、風太の顔を見るのが絋平は、


「あの頃から、ずーっと絋兄ちゃんは俺たちを―――俺を守っとってくれたばい」
「約束したからな」


 いい兄ちゃんになる。
 風太の『楽しい』を守る。  


 何よりも、笑ってる風太が好きだった。
 ずっと笑っていて欲しかったのだ。


「……そうやね、絋兄ちゃんはずっとそうやったね」
「風太?」
 だというのに、何故か今の風太は寂しそうな笑顔をしていて、まるで泣くのを我慢しているかのようだった。
「……絋兄ちゃん、ずっとずっとありがとう、まもってくれて、ずっとありがとう」
「……どうしたんだ、風太、いきなり」
 そして突然の感謝の言葉。
 おかしい。
 何かがおかしい。
 まるで晴天だった筈の空から急に土砂降りの雨が降るかのような嫌な気持ち。
 いや、絋平は知っている。
 ずっと、この時が来る事は理解していた。
 いつかこの時が来ると。
 朔太郎のことを思い出せば、必ずいつか訪れることだと。
 けれど、そのことから目をそらしていた。


「いきなりじゃなか!」
「風太…」
「今まで、ずっとずっと絋兄ちゃんは守ってくれとったやろ?やけん、もうよか」


「いいって―――――」  まだまだ遠い未来だと。  風太はまだ子供なのだから、とずっと思っていた。 「もう、大丈夫ばい」
「っ……、風太」
 けれど、風太の口が開く。
 絋平が聞きたくなかったその言葉を、ただ聞くことしかできなかった。




「もう、守って貰わんくても大丈夫ばい!」






 弟と妹が生まれる前から、ずっと自分の背中を追いかけてきた弟分。
 目を離すとすぐに何処かに行ってしまうその子の面倒を見ることを嫌だ、と思った事は一度としてない。



「風太?風太ーーーーー」  


 かくれんぼをしよう、と風太が言った。
 岬が小学校受験をするから、と塾に行くようになってから風太は少しだけ寂しそうだった。
 だから、休日はよく絋平と、風太と朔太郎と三人で遊んでいた。
 まだ、あおいと会う前で――――朔太郎が元気だった頃だ。


「風太、どこにいるんだ?」


 でも、この日は朔太郎が用事があって二人で近くの、そう、風太と話した公園で遊んでいた時だった。
 探しても探しても風太が見つからなくて、まだ7歳の絋平はどうしたらいいのだろう、と思っていた時だった。
「絋平」
「朔太郎!」
「ごめんな、用事で遅くなって……あれ、風太は?」
「風太は……」


 かくれんぼで見つからない、と言おうとする前に朔太郎は全て理解したようで、ぐるりと公園を見回し、それから脇目も振らずに茂みへと向かう。
 絋平はそこは探した、と言おうと思ったが、
「みつけた」
 朔太郎の声に驚いて絋平は慌てて朔太郎の隣に立つ。
 そこにはすやすやと寝息を立てて、猫に囲まれている風太がいた。
「……風太」
 何してるんだ、とか、かくれんぼ中だろ、など思う事はあった。
 けれど、眠っている風太に想いが通じるわけがない。
「風太」
 風太の肩を朔太郎が揺らす。
「ん~……朔兄ちゃん……」
「おねむか?」
「ねむたか……」
 薄らと目を開いて、ぽやぽやとした表情で応える。
 それを責めることなく、朔太郎は風太のことをひょいと抱き上げる。
「ごめんな、絋平」
「ううん」
 その光景に、絋平は『いいな』と思った。
 いいな、風太は朔太郎みたいなお兄ちゃんがいて。  


 絋平にとって朔太郎はキラキラとしていて、格好良くて憧れだった。
 でも、それと同じように思っていた。


 『               』


 それは遠い日に置いてきた気持ち。
 思ってはいけない、こと。
 だから忘れた。忘れることにした。


 何故今更思い出すのだろう、と絋平は目を開けた。


 長崎から戻ってきて数日。
 朔太郎と風太の事がやっと解決したというのに絋平の心はまだ暴風が吹き荒れていた。
 部屋は相変わらず片付かない。
 低いはずの天井が異様に高く感じる。


 このまま、また眠りたい気持ちはあるものの、また朔太郎と風太の夢を見る事は解っている。
 仕方ない、と絋平は体を起こす。



 吉祥寺で迎える朝は、今日は快晴だった。


 隣を見れば、涎を垂らして風太が眠っている。
『サクタロー』はそんな風太を見守るように、絋平と風太の真ん中で横になっている。
 いつもの光景だ。
「……」


 風太は変わらない。
 あの日から。
 でも、絋平の世界はあの日に一変してしまった。
 守らなくて良いと風太に言われた。
 それは成長として理解しているし、好ましいことだと理解している。
 そう、理解はしているのだ。
 けれど、感情がそれを拒む。
 納得出来ない、どうして、と思う。
 だが、同時に自分でも思うのだ。


 朔太郎との約束は果たされたのだから、と。もう絋平がいなくても風太は平気なのだ、と。
 その成長を、絋平はどうしても受け入れられずにいた。
 けれど、解らない。自分でもどうして、その事を良いことだ、と思えないのか。


「あ、絋にい!おはよう」
 風太を眺めていると、岬と一緒に朝ご飯の用意をしていたらしいあおいに声をかけられる。
「おはよう、あおい」
「丁度良かった。もうそろそろご飯だよ」
「ああ……」
 台所を見ると、岬と大和が立って料理をしているようだった。
「用意してるから、風太のこと起こしてくれる?」
「あ、ああ……わかった」
 あおいに言われるがままに絋平は風太へと手を伸ばす。
 むにゃむにゃと寝言を言う風太。その様子を微笑ましく思いながら絋平は風太の肩に優しく触れ、優しく揺らす。
「風太、もう朝だぞ」
 そろそろ、起きないと、と言葉を続けようとした時、風太が目を開けずに言葉を発した。


「……朔兄ちゃん…?」
「っ……!」


 たった一言。
 だというのに、絋平は動揺でつい風太の肩に力を込めてしまう。
「っ!なんね!?いた、痛いっ!痛い!」
 その絋平の力強さに風太は目を見開き、ジタバタと体を動かす。
 風太のただならぬ様子に絋平は我に戻り、力を緩めた。
「わ、悪い、風太。つい力が……っていうか、お前が朝寝坊なのが悪いんだろうが」
「そうやけど、絋兄ちゃん、やっちゃ痛かったばい!肩壊れるかと思った!」
 はぁ、痛か~と騒ぐ風太に大げさな、と言えないのは自分の怪力が人並み以上だということを絋平も自覚しているからだ。
 風太に申し訳ないと思いつつ、元はと言えばお前が悪いんだぞ、と少しだけ絋平は八つ当たりしてしまう。
 風太の叫び声に大和とあおい、岬がやってきて、どうしたどうした、と尋ねる。いつもの騒がしいフウライの朝。
「絋にいは人よりも力が強いんだからよ~」
「でも絋にいの言う通り風太は朝遅すぎだからなぁ」
 この日々が愛しくて、いつまでも続けば良いと思う。
 風太が朔太郎の事を思いだして、死を受け入れられた事を、絋平も好ましく思う。


 だというのに、何故だろう。
 心のどこかで、自分は朔太郎を、否、それ以上は考えてはいけないと絋平は自分の気持ちに蓋をした。


「なぁなぁ、今日はみんな何の用事があると?」
「俺はギターを教えて貰う約束がある」
「例のギターリスト交流会か」
「なら、手土産を持って言った方がいいかもね。行く時に下で駄菓子を買ってったら?」
「ああ、そうする。……あおいと岬はバイトだったか」
「そうそう、……そういえば、珍しく絋にいは今日オフなんだよね」
「え?あ、そういえばそうだったな」
 ぼーっとしている間に繰り広げられる会話に現実に戻される。
 よく見ると大和はすでに三膳目のおかわりをしていた。
「なら、悪いけど風太の面倒見ててくれる?」
「面倒ってなんね?あおい!」
「言葉の通りだろ」
「岬まで!大和~!!」
「……風太、ここは一つ二人の言う事を聞いておいたほうがいい」
「うぅ~大和まで~」
 頼みの綱の大和にまでそう言われてショックを受ける20歳。
 でも、その姿は小さい頃から、否会った頃から大して成長がないように思えた。
 可哀相だが、丁度いいと、絋平は思った。


「風太」
「ん?」
「俺と一緒に、井の頭公園に行こう」


 このモヤモヤとした感情にケリをつけるべく、絋平は一歩を踏み出した。


 大和が握ってくれたおにぎりと、岬がつめてくれたお弁当。
 右手にはサクタロー。
 左手には絋平の手。


 夢だったんじゃないだろうか、あの時の台詞は、と思うほど風太は変わらない。
 空は快晴。
 気温は温かく、井の頭公園にはちらほらの人が歩いてるのが見えた。


「風太ちゃん」
「おお~、おはよう、おばあちゃん、ムギ!」
「相変わらずネコみたいな名前の犬だな……」
 老婦人と寄り添うに歩く犬の前に風太はしゃがみこむと、犬は嬉しそうに風太の顔をベロベロと舐めまわす。
 わしゃわしゃと犬を撫で回すと嬉しそうに犬も風太に抱きつく。
 サクタローにはちゃんとぶつからないようにするのがさすがである。
 その勢いで押し倒されて、風太は地面に座り込むが気にせずに犬と戯れる。
「ふふ、風太ちゃん、ムギと遊んであげてくれてありがとうねぇ」
「いえ、どちらかというと風太が遊んでもらってるようなものですから」
「ふふ」
 絋平がそう言えば老婦人は笑みを浮かべる。
「絋平くんは風太ちゃんは本当に大好きなのねぇ」
「……え?」
 にこにこと何でもないように言われて、絋平は言葉に詰まった。
 風太が好き。
 当たり前だ。嫌いかどうかなんて考えたこともない。
 けれど、その当たり前のことを言われて、なぜか絋平は衝撃を受けた。
「………」
 ハッとして、なぜ老婦人はそんなことを…?と疑問が浮かんだときには犬を連れて老婦人はすでに去っていた。
「ばいばーい!」
「あ……」
 しまった、と思って絋平が意識を取り戻すが、そんなことを考えていたのは絋平だけで風太も老婦人も気にしていないようだった。
「絋兄ちゃん、変な顔してどうしたと?」
 大きな目を絋平に向けて風太がじっと見つめる。
「いや」
「?」
 首を傾げるその様子。なにも変わらない。
 変わらない、はずだ。
 17年間。風太と絋平はそれだけ長い年月を一緒にしてきた。
 だから、風太の成長を見守ってきたといってもいい。
 たった2歳しか違わない自分にうぬぼれるなと言われるかもしれない。
 けれど、絋平は絋平なりに風太のことを大事にしてきた。自分が反抗期になった時も、風太には甘かったと周囲に言われるくらいだしそうなのだろう。
 だって、あの目を向けられて冷たくできる人間がいるだろうか、とも思う。
 それくらい風太は絋平にとって甘やかす対象で、護るべき対象でーーー



「……」


 朔太郎の、弟だ。
 だから、大事にしたい。
 でも、風太はいい、と言う。
 もういいと。でも、風太を護らない絋平の人生は果たして幸福なんだろうか。
「絋兄ちゃん!ボート乗り場、閉まってるばい!」
「風太、ボートに乗りたかったのか?」
「前、乗った時は絋兄ちゃんと乗らなかったばい!せっかくだからのりたか!って思ったんよ」
「……そうか」
 手を引かれて風太に話しかけられて絋平は現実に引き戻される。
「ボート乗ってる人おらんね~」
「なんだ、乗りたいのか?」
「この前は絋兄ちゃんとは一緒に乗れなかったからのりたか!」
 そう無邪気に言われてしまえばつい口元が緩む。だが……
「でも、前ボート壊しちゃったからな……」
 前回は思い切り踏んでペダルを壊してしまった。あの時は許して貰えたが今だとどうなるのか……出費を考えるだけでぞっとする。
「……絋兄ちゃん、手だけじゃなく、足まで怪力やもんね~」
「言うな……それにそんなに壊してない、はずだ」
「……」
「風太、そんな目で見るな!」
 たまたま、そうたまたまのはずだ、と自分でいいわけするが、小さい頃から力が人より強いことは悲しいほど自覚しているので、風太や岬にそんな悲しい目で見られるのも慣れていた。辛い部分だが。
「……じゃあ、今日は散歩だけやんね!」
 ふんふんと楽しそうに鼻歌うたいながら風太は楽しそうに歩く。
 右手のサクタローがキラキラ輝いていた。
「風太」
「うん?」
「話したいことがあるんだ」
「うん?」
「ちょっと……座らないか?」
 水門橋の少し手前のベンチを指差し、2人で並んで池の見つめた。
 池を囲う柵は草で覆われ、池にはカワウが泳いでいた。
「……風太、大事な話があるんだ」
「大事な話?なんね?」
 検討もつかないと言わんばかりに眉を顰める風太。
「この前の……」
「この前?」
 本当にワケがわからないようで風太は首を傾げる。
「長崎の……」
「…っ…」
 その言葉に風太は思いだしたようで目を見開いて、
「ま、まま、まさか、花火を買ってきたの怒ってると…?」
「は?」
「やけん、長崎の墓参りといえば花火ばい!これは譲れなか!朔兄ちゃんもきっと喜んでたはずばい!」
「……」
 ふんっと胸をはって、自分は悪くないと言いたげなその様子。
 小さい頃から何故かこうだというのに、許してしまうのは結局自分が風太に甘いからなのだろう。
 だって、無碍にできない。
 風太の泣き顔は、絋平にとって自分が辛いことよりもずっとずっと苦しいし、嫌なのだ。
 笑っていて欲しい。
 この笑顔が見れなくなるのが嫌だ。
 だから、
「そうじゃなくて……」
「うん?」
「……」
 一瞬、口にすることが躊躇われる。
 でも、言わなければいけない。口にするのが、どんなに嫌な事でも。
「風太は、もう俺に守って貰わなくていい、って言っただろ……?」
「言ったばい!」
 ……そこで元気よくする理由はなんなんだ、と思わなくもないが、絋平はスルーして話を続ける。
「……兄ちゃんに守られるの、嫌か?」
 これで嫌って言われたらどうしよう、と絋平は自分の存在意義を考える。
 小さい頃から、風太に笑って欲しいと、そのことを思っていた。
 それを迷惑だったのだと否定されたら、と思う。
「いやじゃなか!」
「……」
 けれど、そんなことはない、と風太は否定してくれる。
 嬉しい。
 だからこそ、思う、なら何故?わざわざ拒絶するのか、と。
「なら、どうして?」
 出した声は、震えていた気がした。
 周囲の木々が風に吹かれて、草が落ちる。
「だって、」
 強い風の音がするはずなのに、絋平の耳には風太の声しか聞こえない。



「絋兄ちゃんは―――――朔兄ちゃんが、好きだったやろ?」


 誰も知らない筈の、絋平の初恋。
 叶わなかった淡い、それは、泡になって消えたはずだった。
 あおいにも、岬にも気付かれていない筈だった。
 ましてや、風太に気付かれる筈がない、と信じていた。
 

「……どうして、」
「絋兄ちゃん、気付かなかったと?」
 

 絋平は何も言えなかった。
 今、目の前にいるのは風太だろうか。自分のよく知っている、弟分だろうか。
 そんなあり得ないことすら考えてしまうほど、目の前の風太は寂しそうな顔で笑っていた。


「朔兄ちゃんのことを、ずっと、絋兄ちゃんが見てたように、」


 今にも泣きそうな声で、笑って言う風太の言葉。
 そんな声をするな、と抱きしめたかった。けれど、風太の目が、笑顔が、声の音色が絋平に冷や水を浴びせたかのように全てを拒む。
 風太の言う通りだった。
 優しげに笑う年上の彼が好きだった。
 あの背中を追い続けたかった。
 彼の語る夢が好きだった。
 はにかむ笑みを見ていたかった。
 読んでくれる声をずっと聞いていたかった。
 隣にいつも居て欲しかった。
 その綺麗な瞳で自分をずっと映して欲しかった。
 奏でるサックスが、愛しかった。



 ――――――――ずっと、生きてて、欲しかった。


 でも、そんなことを彼にぶつけることは出来なかった。
 絋平の初恋は、終わった、はずなのだ。
 あの日、あの時、朔太郎が死んだ日に。
 ここにあるのは、消すことも、燃やすことも、捨てることも、沈めることも出来なかった初恋の遺り滓だけ。
 


「俺も、ずっとずーっと絋兄ちゃんのことを見てたばい」


 そして、初恋の人とよく似た弟が、自分の前で口にした。
「……」
 何か言わなければならないのに、絋平の喉に言葉ははりついて何も言えない。
 寂しそうに一度笑って、けれど、すぐに絋平の大好きな笑顔で風太は笑う。


「絋兄ちゃん」  


 空色の目が、絋平を射貫く。


「ずっと、はじめて会った時から、ずっと、ずーっと、絋兄ちゃんのことが、大好きばい」


 拙いソレが、愛の告白ではない、と否定するには、余りにも真っ直ぐすぎた。
 自分が朔太郎に向けていた弟分が兄分に向けた思慕ではない、恋情。今度は、否、自分と同じだけ、それ以上の年月の想いを風太は絋平に伝えた。
「……俺は……」
 応えなければ。
 でも、何を?
 弟にしか見えない?
 それなら付き合うか?
 俺も風太が好きだ?
 どれも、正解のようで、どれも不正解に思えた。
 風太が何を望んでいるのか、絋平には解らない。
 ただわかるのは、風太は絋平が思うよりもずっと、ずっと強くなっていたということ。
「絋兄ちゃんは朔兄ちゃんのことが好きやんね」
「……っ」
 くしゃりと風太が笑った。違う、そうじゃない、そんな顔をしないでくれ、と思うのに、そうさせているのは自分だ。
 風太を今、傷つけているのは、守ると豪語していた自分自身なのだ。
 その事実に気付いた時に、絋平は自分自身を殺してやりたくなった。
「……あんね、絋兄ちゃん」
 風太の左手がそっと絋平に触れた。温かなそのぬくもりが風太がここにいるのだと、当たり前のことだが教えてくれる。
「……っ」
 なにが、風太は守る、だ。
 本当に、守られていたのは、


「バンドも、音楽も、夢も、楽しい事も、嬉しい事も――――――ベースも、」
「……」
「全部、全部、俺、絋兄ちゃんから貰ってきたばい」
「……ちがう」
「違わん、だから、もうよかよ」
「……違うんだ、風太、俺は」
「……絋兄ちゃんは、朔兄ちゃんに返しちゃりたか」
「……風太」
 風太の恋心に応えられないのは自分だというのに、拒絶されたのは自分のように感じたのは自分なのは何故だろうか。
「……絋兄ちゃんの『好き』は、俺の物にはならなか、やけん」
 風太のお願いは何でも叶えてあげたい。
 でも、このお願いは、応えたくない。
「ベーシストの『早坂絋平』は俺にくれん?」
 右手がサクタローから離されて、両手で絋平の手を包みこむ。
 残酷すぎる願い。
 確かに絋平は風太が本気になってくれないかと、海外に行くことを目指してくれないかと願っていた。
 けれど、それはこんな形じゃなかった。
 何かを諦めて欲しいだなんて、思った事はなかった。


 風太には、なんでもあげたかった。
 風太が望むなら自分の命だって渡したって構わないというのに。


「っ……」


 だが解る。
 それは、風太の望んだものではないのだろう。
「俺のベースは、」
 絋平のベースは、父親の影響を受けたものだった。
 ベースが好きで、朔太郎の語る夢に影響を受けて、世界を目指した。
 その時から、絋平のベースは朔太郎に捧げたものだった。
 けれど、朔太郎を喪った時、自分はベースを壊した。二度と弾かないとさえ思った。
 でも、そのベースを、もう一度弾こうと思ったのは――――――
「風神RIZINGを結成した時から、風太のものだよ」
 これだけは本当だった。
 今のベースは、絋平の音は、紛れもなく風太に捧げた物だった。
 それだけは、心の底から言えた。
「ならよか!」
 その言葉で風太は満足そうに笑った。
 絋平の、好きな笑顔だった。