揺らぐ瞳に雨粒

「フィガロ、頼みがある」
 シノが来た時に、またヒースクリフの記憶を消してくれって言われるんだろうな、と思った。
「記憶を消して欲しい」
 ほら、とフィガロは思った。
 そんな頼みは聞けない。
 また爪を剥いで自分に渡されたら面倒くさいな。
 記憶は取り戻してるのに、同じ事をするのか、とフィガロはため息を心の中で吐く。


「嫌だよ」
「まだ何も言って無い」
「うん、でも君が考えそうな事は解るから」
「……そうか」


 そう言うと、少しだけ顔色を悪くして、シノは床を見る。
 けれど、すぐにフィガロを見て「なら尚更頼む」と言った。
「なんで」
「気付いてるのなら解るだろ」
「解らないよ、というか君も学ばないね」
「……」
 ファウストの苦労が偲ばれる、と思いながらフィガロは今度は実際にため息を吐いた。
「ヒースクリフのためじゃない」
 嫌な記憶を消すのが本人のため?と思ってると、シノはきょとんとして「は?なんでヒースの名前が出るんだ」と言った。
「……え?」
「ヒースは関係ない」
「……」
 フィガロはその言葉を聞いて一瞬考える。
 それから、こめかみを押さえた。

「シノ、ごめんね」
「なんだ」
「最初からいい?」
「……フィガロ、頼みがある」
「いやいや、そこじゃなくてさ!」 「なんだ?」
「記憶って誰の……?」
 コンコンとノックが聞こえるが、フィガロはシノに意識が持って行かれて気付かなかった。
「俺のだ」
「……え?」
 予想とまったく違う答えだ。
 どういうことだ、と思ってる間に、ドアが開く。
「なんで」
 フィガロは本当に咄嗟に声が出た。
 『フィガロ先生』といつもの穏やかで低い声が中へと入ってくる。


「好きな奴が出来た、その記憶を消して欲しい」


 そう言った瞬間、レノックスの姿が見えた。
「シノ」
 あ、まずい、と思った瞬間にレノックスがシノの肩にそっと手を置いた。
「レノックス」
 なんでもないようにシノは振り返った。
「それは、どういう」
「……」
 シノは一瞬苦虫を噛むような顔をした、けれどレノックスへの信頼からなのだろう。
 すぐに表情を戻し、レノックスを見つめた。


「好きな奴が出来た、邪魔なんだ、記憶と感情が」
「……」


 まぁ、珍しいことじゃない。
 失恋した記憶が悲しいとか、身分違いの恋の悩むとか、そんなことは多々ある。
 実際に同じように忘れて欲しいと言われたことなんて幾らでもある。
 その類いだろう、とフィガロも気にしなかった。
 まぁ断るつもりだったけれど。


「シノ」
「……レノックス」
「少し、話そう」
「……」


 レノックスが言えば、少しだけ考えてシノは頷いた。
「また来る」
 その様子にフィガロは少しだけ面白くなかった。
 シノはフィガロに対しては敵対心を隠さない子だった。
 野生の勘なのか、いつも敵意をむき出しにして、治療の時でさえ隠そうとしない。
 けれど、レノックスにはまるで兄を慕うように素直に従う。


「大方、ヒースクリフのことを好きになっちゃって辛いとかだろうな」


 面倒くさい、と思うフィガロ。
 そんなフィガロだからこそシノは全く懐かないことに気付いてなかった。
 そして、勝手に予想して、終わらせるからこそ、物事の一番大事な事に見逃すということも。
 最も、フィガロにとってシノはそこまで大事な存在ではなかったから気にすることもなかった。
 酒の肴にシノってヒースクリフの事が好きみたい、恋心のほうでね、だなんてせいぜい呟くくらいで終わりだった。



 それをクロエに聞かれてとんでもないことになるのは、また別の話だが。




「……ここでいいか」
「……」
「どうした」
「……」
 レノックスは屈んでシノの顔を見た。
 レノックスはシノが大切だった。
 大切なファウストの生徒であり、可愛がっている子。
 そして、鍛錬仲間であり一生懸命な姿は好感が持てた。
「……誰にも言わないか?」
「言わない」
「……」
「約束するか?」
「いや、いい。あんたの事は信用している」
 そう言って、魔法舎の森、丁度いい大きな石にシノは腰を下ろした。
「……どうした、好きな人の記憶を消して欲しい、だなんて」
「……」
「……ひとつだけ聞くが」
 レノックスは穏やかな声でシノに尋ねる。
「それは、ヒースクリフではないんだな」
「違う」
 レノックスにはその事に対して間違いないだろう、という直感があった。
 同じ従者、同じ人間を慕うもの同士通じるものがあった。
 何より、自分達の忠義は恋ではない、という強い意思があった。


「……ヒースだったら、楽だったかもしれない」
「……」
「いや、違うな。ヒースのことをオレなんかが好きになるなんて烏滸がましいことだ」



 ぽつりと呟いたその言葉をレノックスは否定しない。
 その気持ちはわかってしまうからだ。
 レノックスはファウストが大事で幸せになって欲しいし、笑って欲しい。
 けれど、それは恋とは違う。
 恋愛感情を抱かないのか、と尋ねられるとやはり、シノと同じように自分が好きになるのは烏滸がましいと思ってしまうだろう。
 それは従者として当たり前の事だ。
 主人の幸せを祈り、未来を願う。
 きっと、シノも同じだろう。


「……相手を聞いても?」
「……」
 シノはレノックスの問いに瞳が揺らぐ。
 いつもは真っ直ぐな赤い瞳が迷子になっていた。
 けれど、レノックスへの信頼か、こそっとレノックスの耳元にシノの口が寄せられる。


「――――――――ネロ」


「……そうか」
 その名前にレノックスは特に不思議に思わなかった。
「どうして、忘れたいんだ」
「……」
 レノックスはシノを知っている。
 辛いから、苦しいから、と逃げるような人物ではない。  

「……アンタは」
「……」
「アンタは、昔、ファウストの従者だったんだろう?」
「……ああ」
 ファウストは自分の過去をシノに話した、と言っていた。
 だから隠すことではない、と素直に言った。
「……結婚しようと思った事は、あるか?」
「ああ」
「……」
 意外な答えにシノは目を丸くした。
「相手は俺と同じ誕生日に生まれた犬だった」
「……」
 相手が犬だということにシノは驚きはしなかった。
 魔法使いは花にも、犬にも、恋をする。あの忌々しい月を愛する魔法使いだっているのだ、けしておかしなことではない。


「ファウスト様を捜して、見つからずに途方に暮れて、その時に会った。目と目を合わせるだけで互いの気持ちがわかった。今でも、アイツ以上の相手がいるとは思えないほどに大事だった」


「……」
 その言葉にシノの瞳に涙がにじむ。
「……シノは、忠義よりも恋に生きる自分が辛いのか」
「違う」
「……」
「でも、思う。ヒース以外にも、大事なものが増えて、護りたいものが増えていく」
「……ああ」
「ここに来た時、オレはヒースと賢者だけ護ればいいんだって思ってた。でも、今はもう」
「……」
「ファウストも、アーサーも、ミチルも、クロエも、リケも、ルチルも、………ネロも、護りたい存在が増えすぎた」
「……ああ」
「時々、揺らぐ。これでいいのかって」
「……」
「それだけじゃなくて、」
「……」
「……死ぬなって言いたくなる」
「……」
 ひとつひとつ紡がれる言葉に、レノックスはただ静かに耳を傾ける。


「あいつは、多分死に場所を求めてる」
「……」
「死なないで欲しいって、生きて欲しいって思う度に、相手に押しつけてるって感じる」
「……シノ」
「オレはヒースクリフの為に生きてるのに、相手にはオレのために生きて欲しいだなんて傲慢だろ」
「……」
「それが嫌だ」


 相手の生き方を変えたくない。
 相手に生きてて欲しい。


 シノは成長した。
 ヒースクリフに我が儘を言っていた若造はもういない。
 今でも幼く小さな命だけれども、それでもシノは相手の望む生き方を曲げるような事はもう考えていない。
 胸を貼って欲しいとはおそらく思うだろうけれども。
 それと同じだ。


 ネロに生きてて欲しいという気持ちと同じくらい、自分と一緒に生きて欲しいという我が儘がある。
 死ぬなよ、と言う度にどれだけの感情をこの子は込めているのだろう。
 そして、それが返されない事を知っている。
 

 レノックスには解らない。
 けれど、一つ目の問いの答えはわかる。  


「俺は、」
「……」
「ファウスト様をお慕いしていて、大事に思っていて、幸せになってほしくて」
「……うん」
「でも、同じくらいルチルやミチル、アーサー様やカイン、リケ、クロエにヒースクリフ、それにシノ」
「……」
「お前を護って、幸せになって欲しいと思ってる」
「……」
 お前に護られる謂われはない、とシノは言わなかった。
 それはレノックスへの信頼なのだろう。

「互いを護り合えばいい」
「……オレがアンタを?」
 必要あるのか?と言いたげな瞳。
 レノックスの強さは知っている。魔力はないけれども、同時にここまで強くあれるものなのか、とシノはレノックスを見ていると思う。
 口にはしないけれど、レノックスはシノの目標の一つだった。

v 「護られる側が護り合ってはいけないだなんてことはない」
「……」
「忠義だけが全てじゃない。ヒースクリフに捧げる感情と、友達に幸せになって欲しいという感情は似ているけれど別ではないのか」
「……」
「俺がファウスト様が一番で、シノがヒースクリフが一番だという気持ちは、何も変わらない」
 大丈夫だ、とそっとシノの背中を撫でる。
「……」
「大切なものを増やしてもいい」

 北の魔法使いは執着は要らないと言う。
 大事なものを手にすれば、弱くなると。
 でも、レノックスはそうは思わない。
 本当にそうならば、オズも、フィガロも、スノウも、ホワイトも、ブラッドリーも、オーエンも、ミスラも、あんなに強くない。
 本人達は否定するだろうけれども、レノックスの目から彼らは自分以外の相手をしっかり大事にしている。
 命に代えて護ろうとするモノをちゃんと手にしている。


「それは、シノへの裏切りにはならない」
「……でも」
「……」
「……死なせたいヤツを生かそうとするのは勝手じゃないのか」


 その言葉はレノックスにも刺さった。
 ファウストも、フィガロも、レノックスからしてみれば迷子に見える。
 今のファウストは違うが、少し前のファウストは自分の死に場所を求めていたようにも見えた。
 ヒースクリフを庇って死んだ時、きっと彼は死にきれると思ったのだろう。


 大切な存在を護って死ぬのなら、自分の人生も悪くないと思ったに違いない。
 でも、
 それでも、レノックスは――――――――


「傲慢じゃ、ダメなのか」
「……え」
「相手が死にたがってるなら、シノが教えてやればいい」
「……」
「生きたくなるようにしてやればいい」
「……レノックス」
「お前は英雄になるんだろう?」
「……っ」
「英雄になる姿も、身長が伸びる姿も、シノが笑ったり幸せになる姿も全部、生きて見ないと損をするって思わせてやればいい」
「……」
「無理矢理変えることは、ねじ曲げる事は良くないことだ」


 人は無理矢理変える事は出来ない。
 変えようとするコトは許されない。


「でも、」


 心にノックすることは許される。
 言葉で、
 表情で、
 信頼で、
 信用で、
 ぬくもりで、
 伸ばした手で――――――


「変わる事を手伝うのはけして悪いことじゃない」
「……っ」
「俺は、お前がその感情を否定することは嫌だよ」
「……」


 そう言って、そっとシノの漆黒の髪をレノックスの大きな手が撫でる。


「……傲慢だな、アンタは」
「フィガロ先生によく言われる」


 レノックスの言葉にシノが笑った。


「……」
「どうした?」
「――――――ファウストに、少しだけ似てる」  


 その言葉にレノックスは手を止めた。
 そんなレノックスにシノは自分の頭を押しつけた。

「もっと撫でろ」
「……」
「押さえつけるようにじゃなく、優しく」
「ああ……」


 くすぐったいのかシノは更に笑った。
 その笑顔に、ああ、良かったと、レノックスも笑みが零れた。







 その様子を、影から誰かが見ていたことを、レノックスは気付いていた。
 きっと彼は後で「レノ、ありがとう」と言いに来るだろう。
 その時何を言おうか。


 とりあえず、「シノにファウスト様に似てると言われました」と言ってみよう。
 そう言ったなら、彼はどんな顔をするんだろうか。
 きっとシノとどこか似た顔で、驚いた顔をするに違いない、とレノックスは笑った。


 

フィガロに恋心を消して欲しいと頼むシノが書きたくて、でもなかなか上手く書けなくて、それとは別にレノックスとシノの話を書きたかったので合わせて見たら良い感じに嵌まった感じです。
シノにとっての一番はほとんどがヒースクリフなんだろうけど、それでもいくつかの項目はファウストだったり、ネロだったり、ミチルだったり、クロエだったり、アーサーだったりすると思うのです